2009年04月09日

初 ゴケっ! ( T - T * ) !

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 って、Myバイクを貸した社の若い衆が・・・。
初めて通勤に使い、駐車場の端で帰り支度のアイドリングをしている所へ、バイク好きな連中がパラパラと集まって来た。色んなメンバ−が跨ったりして、その内の一人、若いが私より遙かにスキルの有る ” 元 ZZR 乗り ” に・・・

C:『 走って来てイイぞ?』
若:『 ホントっすか!』

これが運の尽き。
 背を丸め、手慣れた感じでスロットルを煽ると、結構な調子でガランとした駐車場を走り出した。と、フェンス際まで行って、最初の右タ−ンで、衆人環視の中、
[ ガリガリガリ!・・・ゴテっ!!]

C:『 ひィィィィィ〜〜〜〜〜っ!』
皆:『 キャアぁぁぁぁぁっ!・・・アソコで転ぶか?!』
ダッシュである。

C:『 け・・・怪我はないかい?』( T - T * )
若:『 ・・・やっちゃいました・・曲がんねぇぇ!
    み、見積もり取って下さい 』ヽ ( * ′ д ` ) ノ
C:『 そんなんもう、いいかな・・・』
皆:『 いやいや、それはダメだよ、cojiさん!
   オマっ、あれでコケないだろう、普通!!』

なのである(泣)。
 ま、30km/h 程度の低速であったし最初に接地する部分からユルユルと倒れ込んだので、遠目のイメ−ジより被害は軽傷だ。

・サイレンサ−上/下段(ノ−マル)、共に下部が擦り傷。
 下段は多少、歪んでいる。

・ヒ−トガ−ド大/小(黒色クロ−ム改)、同じく擦り傷。

・ラジエタ−カバ−(純正改)、下部に擦り傷。

・ブレ−キレバ−端、擦り傷。

・ミラ−(純正改)端、擦り傷。
以上。

 走行に際しての異音、操作不良は無し。
ミラ−は可変部分が、押された通りに ” 明後日の方向 ” へと向きブレ−キレバ−は、握り方向へと押され共に、傷が付いたのみで本体の曲がりは無い。

若:『 いやホント、cojiさん、修理の見積もり取って下さい 』
C:『 うん・・・ただな、” 完全な元通り ” だと、地味な
    カスタムだけど、目玉が飛び出るぞ?』
若:『・・・』
C:『 んで、オレもな? ” 乗ってごらん ” っつった手前が
    あるから、” 完全、元通り ” にする気は無いよ。
    んで、基本 ” 修復 ” で、交換は極力しない方向で
    いくから 』
若:『 いいんすか? そんなんで? 』
C:『 ま、ホラ、今クルマにも愛情、持って行かれてっから、
    以前みたいな執着が無いのよ 』
皆:『 え? アンタ、本気で言ってんの? ソレ 』(  ̄ ▽  ̄ )
C:『 うん、傷が無くなりゃ、” 再メッキ ” とかで
    いいんだ 』
皆:『・・・』
C:『 更にな、こんなご時世だろ? ” 修理の実施 ” は、
    先延ばしすっから 』
若:『 え・・・』
C:『 お前だって所帯持ってんだからこんな事、言えた義理
    じゃねぇだろうよ 』

 走行に不具合は一切、無いし、ここは大人の選択なのである。
シ−ズン突入直前だが、分割実施でもいいと思っている。以前の様に入れ込んでいる時期だったらまぁ、ジクジク悶々とするのだろうが今はクルマもあるし、期せずして愛情を ” ダブル ” で持ってしまった事に対する、これは ” 戒め ” ではないのか、とも思う。或いは、亡くなった親父の警鐘なのかも知れぬ、なんて思えたりするから不思議だ。ま、怪我なく無事なら、気負わずボチボチでイイじゃん。それに、若い衆と気まずくなるのは、何よりも適わない。
posted by coji at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月02日

親父 逝く/享年89

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 肺炎を拗らせて入院中だった私の父親が先月の24日、89年の生涯を閉じた。
 人は皆、最終的に死ぬ。
従って、世の中では親を亡くした”子供”など、ごまんと居る。中には、誕生の時よりその経験が叶わぬ運命の不幸な者も居る。果たして、親を亡くすと言う経験は、私にとってなにをもたらすのだろう。老衰と認知症が進行し出した頃より、そんな事を意識する様になった。意識しながらも、その事実から目を逸らせてもいた。
 
 転機となったのは、排尿用のチュ−ブを外した事の様に思える。
素人目には、だが。やはり、排尿が上手く行かず出が悪い。脹らんだ膀胱に圧迫され、排泄寸前の消化物が胃に溜まり出した。そして、それが食道を逆流した。今度は口から、チュ−ブでそれを除去した。以降、かなり楽になった様に見え、スヤスヤと眠る事が多くなった。が、素人目には、病状は中々、分からない。回復の兆し、と感じた穏やかさもそれは、衰退への一歩だったりする。
 次に、呼吸がやや荒くなるシチュエ−ションが顔を出す。鼻に差し込む程度だった酸素供給チュ−ブは、入院仕立ての頃の様なマスクに代わりやがて、3パタ−ン有る内の一番大きな物へ変更された。それですらも、弱った親父の肺に十分な酸素を供給出来なくなって来る。呼吸のピッチが速まり、全身を痙攣させる症状が出る。それが治まった後や点滴を替えた時などは、暫くはスヤスヤと眠るのだ。この繰り返し。
 入院以来、病院長からは3度、主治医からは2度、母親は覚悟を宣告されていた。
[ やる事が無い ]
と不平を言いながら、買ってやったパズル本を読んでいたが、その心中は穏やかでは無かったろう。斯様にして緩やかに、親父の寿命は下降して行ったのである。週単位で振り返らなければ数値の変化が分からない程、それは緩やかであったのだ。
 いよいよ、ナ−スセンタ−とリンクしたモニタ−が繋がれた。酸素吸入量、心電、血圧を表示するそれに、親父の寿命が映し出されていた。たまに呼吸が滞り、全身を痙攣させる。モニタ−の数値が跳ね上がる。又、呼吸が始まる。その頻度が嵩み、後の呼吸は次第に弱くなって行く。痙攣の度、私は”頑張れ!”、とは言えなかった。”もう、十分だよ、親父”、”もう、楽になっていいよ”。そう呟いていたのであった。
 23日は、消灯の9時までベッドに貼り付いた。事態が事態なのでナ−スは許してくれたが、そのまま夜を徹しても、”もしもの時”には共倒れになる。クルマを飛ばせば、10分少々で病院まで来られる事もあるし、私は母の背を押して帰宅する事にした。24日の明け方、電話が入る。フラット・ラインがモニタ−に出る様になったので、覚悟して来て欲しい由。母と妹親子とで、駆け付ける。
5時44分、臨終。

 交代で皆で貼り付いていたので、それぞれと色々な話をした。
特に姪とは、奴の人生の上で最も長く話した時間であった。ロックの事バンドの事、ライブの事、”彼氏”とやらの事・・・。子供だ、と思っていた姪ももう19である。そりゃ、色々な悩みがあるだろうよ。これが本当の親子なら、父親って一体、どう思うんであろうか。姪が言う。
[ オジちゃんさ、ジイちゃんが死んだら泣く?]
『 いいや・・・多分、泣かないよ 』
[ なんでさ ]
『 大分前からな、覚悟はしているからな。それにな、親父の事で、長男がメソメソする訳にはいかねぇんだよ 』
[ そんなモンなんかい?]
『 そんなもんだ 』
事実、私は、葬儀中やその後一人になってからも、一滴の涙も流していない。

 葬儀社の離れに亡骸が安置されてからが一番、大変だったな。
入院中、見舞いに来た親父の甥・姪連中が、こぞってやって来た。焼香もそこそこに、WBCを観る為にTVのスイッチを入れる。そこはやはり、”枷が取れた”のだろう。私は、とやかく言う事は無かった。末っ子であった親父とは、彼等は年齢が近い。10年と経たずして、順番に消えて行く連中である。私に出来る事は、全てを穏便に済ませ、”これを最後”と断ち切る事であった。
 ”仕切屋”の別の甥が、祭壇の花輪の順番に文句を付ける。
コレも既に焼きが回って居り、ヨタヨタのフガフガで終わりは近い。血の気の多い姪がいきり立つが・・・

C:『 ここは黙っておけ! バアちゃんが喪主なんだから、
   上手く対応するよ 』
姪:『 なんでよ! こんな時にあんな注文付けて、
   なんなんよ!! 』
C:『 黙ってろって。お前が・・・いや、俺が生まれる前から
   の付き合いの歴史があんだよ。それにな、ここでお前が
   文句言ったら、バアちゃんの立場はどうなる。怒るだけ
   大人になったんだったら、それくらい解れっ!!』
姪:『 ・・・ 』

 姪が危惧した通り、気丈さで跳ね返すも母はハンカチを鼻にグズグズと始めた。

C:『 どうしたい?』
母:『 悔しいんだよ、あんな事を言われて・・・』
C:『 だからって、メソメソすんのかよ。ま、葬式らしくて
   いいやな 』
母:『 バカにすんな!』
C:『 じゃあ、言ってやるよ。んな事でメソメソされちゃあな、
   今までアンタに”反骨”叩き込まれて来た俺の、立つ瀬
   が無いんだよ。悔しかったらな、牙剥いてブチのめせ。
   ”会津の女”なんだろうが 』
母:『 ・・・ 』

と、分かった風な事を言って皆を黙らせた。それでも姪は式の最中、すぐ後ろの席でクルマのロ−ンの話に勤しむ親父の甥の女房連中を、ガン飛ばしで黙らせていた。血は争えぬ。
 驚いたのは、社の先代/当代/上司が、駆け付けてくれた事である。そうは遠くないとは言え、100km近い道のりがある。これには、素直に感謝する。有り難い気持ちで一杯だ。これからは、発言には少し、手心を加えます。
 
 で、だ。私の心に去来したものとは一体、何だったのか。
或る程度、予感はしていたがそれは、単純な悲しみなどではなかった。
 親父の歳が行ってからの子である私は所謂、”パパ、パパ”した関係では無かった。10年ほど前から認知症で伏せってからは尚更、ろくな会話も交わしていない。まだ元気だった頃でも、挨拶は返ってくるがそれは、私を認識しての事ではない。
 だから、と言う訳ではないがそりゃあ、親だもの情はあるさ。でも、悲しくない。後、何年かしたら別の感情が芽生えるのかも知れないが、今はまぁ・・・年の功、としておこう。その代わり、強烈な自立心が生まれた事を報告する。強く、挫けずに生きて行くから、今はこれで勘弁してくれ。
 住職が戒名の参考にするから、と葬儀社のスタッフから故人の人となりを取材された。妹と二人、身振り手振りで話して聴かせる。スタッフが思わず吹き出してしまったエピソ−ドの数々から親父が得た戒名は、”自在照応信士”。これも勘弁してくれ!

 姪は今頃、渋谷のどこかでライブをしているはずだ。
私は行かないが、早くメジャ−になって、私を運転手として召し抱えて欲しい・・・。
 以上、顛末終わり。合掌!
posted by coji at 20:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記